新しい時代を迎えて
たまには自分らしくない使い方をするのも面白い
数ヶ月ぶりに会ったけど、以前に会った時から今日までが短いようで長くて
気だるそうとか、虚無感があるとか言われるから、気だるさ満開で出かけてみたよ。
会うたび気だるそうって言われるけど、決して面倒くさいわけや、気だるいわけではなくて、安心して気が緩んでるだけだからね。
服装に現れるのかな?
やっぱり昔から付き合いがある人は安心する。男女問わず。
安心しすぎてそのまま甘えてしまいそうになるけど、そういう関係ではないからできないよ。
やっぱり一度でも好意をもった人は、一緒にいて安心する。その好意がどういう類のものかはともかく、再び近づくことに警戒をしなくてもよいから。
久しぶりに通話しても、今までと変わらないトーンで話せて、懐かしい会話ができて、それに時々黒歴史が混ざったりしてて楽しかった。
平成から令和を迎えて、今までのことを綺麗さっぱり流して新しい時代を迎えようとしている人がいる一方で、ほんのちょっぴり懐かしく、思春期を過ごした平成にしがみつつある自分がいるのがなんとも情けないね。
平成の時代を捨てるわけではなく、辛い過去は笑い飛ばし、楽しかったことは思い出として新しい令和の時代を迎えることに不満はないが、心の整理もできないうちに一つの節目として今日を区切りにされてしまうことに寂しさを感じる。
いつ渡したかも忘れたCDの曲をアカペラで聴き、曲名も思い出せないながらも懐かしみながら、曲名がかけらも残っていない自分の記憶力を恨んでしまう。
ちょうどボーカロイドの曲が流行りだした時期なのかな?2009〜2011年くらいの曲を聴くと断片的ながらも記憶がフラッシュバックして、頭も心もざわつく。
音楽は良い。歌詞が、メロディが記憶の鍵のように、忘れかけていた頃を思い出させてくれる。父が昭和の曲を時々流すのがなんとなくわかった気がするね。
怒ることも楽しむことも体力がいるので、体力のないぼくは普段は気持ちが高ぶらないようにしているつもりだけど、半ば強制的に記憶を揺さぶられているような気がしてコントロールを奪われてしまう。
滅多とないことなんだし、たまには良いだろう?
誰かと同じ時間を過ごすことは幸せな一方でとても体力がいる。自分の時間を、金銭を、はたまた信念さえも大きく動かされることになる。
それさえ許容できてしまう相手と出会えることはとても幸せなことなんだと思うよ。
だって、今までの生きてきて一番大事にしてきたであろう自分すらも変えてしまうような人に出会えたってことなんだろうから。
令和の時代を迎えて、ぼくがそんな人と出会えるのはいつだろうか。
それとももう出会っているのだろうか。
疲れたので今日はここまでにしよう。
明日は午後から仕事だ。
元号改正なんてもののためにできた余分な仕事だけど、一本の電話で捉え方が変わってしまったかも。
おやすみなさい。